とりあえずおいとこう

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孤独感!

phaさんのイベントに行って感化された!

稚拙だけれど、書いたものをあげてみたいと思う。

ニートとか引きこもり、自殺、鬱と、決して無関係ではない「孤独感」。

 

ゼミ室を脱出だこら~~!!

 

 

 

 孤独感について

 

祖母が大好きだった。寂れた漁村に八人兄弟の末っ子として生まれた祖母は、幼少期は大勢の子どもらに囲まれて遊んだという。遊びのあとは、どの家でも子どもを迎える支度がしてあり、夕方になると海から疲れた身体を引きずって漁師たちが帰ってくるのであった。

 

私も時々連れられて遊びに行ったことがある三崎の浜辺は、時代が止まったかのようにうら寂しかった。しかし、八十年前は漁業を中心とした村の営みが、それ自体一つの生命体として子どもたちを育ててきたのだった。

 

その祖母は、マンションの一室で亡くなった。孤独死という言葉で表せるかもしれないそれは、祖母のよく語ってくれた村の風景とのあいだに大きな断絶を抱えている事態であるように私には感じられた。

 

孤独死や自殺、虐待、いじめなどの問題は、近代化に伴う資本制の浸透と無関係ではない。今思えば、祖母もその問題のなかに取り込まれていたのであった。

 

「人間が他者と共存できたのは、我と他を繋ぐより大いなるもの、より高きものがあったからです。このようなコスモスを、近代は完全にうち滅ぼしてしまいました。コスモスとの交感を喪った人間は根本的な他者への不信を抱きつつ、社会秩序という約束のもとに、ゲームのように自他の利害・欲求を調整して生きる功利的存在たらざるを得ません。」

 

― 渡辺京二「民衆という幻像」

 

 

 私たちの生きる近代は、人が狼にならねばならぬ社会であり、他人事ののさばる余りにもドライな世界なのだ。

 

 近代化に伴う病理現象は数え上げれば切りがない。自殺・いじめ・引きこもり・鬱・虐待・孤独死etc。そこに起こる心の苦しみについて私は考えたい。それは誰も凝視しようとしてこなかったことであり、余りにもやるせない事柄であると考えるからだ。

 

経済面からみる孤独

 

「交易と市場は人類とともに古かったが、いずれも宗教、神話に依って規制され、それが独立した領域として人間社会を逆に振り回すようなことは巧みに防止されていた」―カール・ポランニー

 

この一文とは逆に現代私たちは、自らを商品として市場に持ち出すことでしか生活の糧が得られない。農業を中心とする共同体中心の生活にあったような、生活と労働が同義であるような事態はもはや期待できなくなった。そしてそのような経済の下、人は利己的利益の追求を求める。他人は関係なしの世界だ。自分の快さや家族の保身のためにいかに尽くせるかが生きていくための最重要事項となるのである。

 

他人同士の集合が都市を形作る。電車内も路地もよそよそしく荒涼とし、人が日々付き合うのは家族や恋人、いくばくかの友人のみである。そして人はそれゆえに、道を踏み外したときそれら以外にすがる術をもたない。これは相当に恐ろしいことだ。

 

「日本で毎年の自殺者は一万数千、このごろ東京だけでも一日に五人ずつ死んで行く。・・・しいて妻子のその意思もないものを同伴として、家をなくしてしまおうという考えの中には、説くにも忍びざる孤立感が働いていたのである。」―柳田国男「明治大正史世相篇」

 

これが書かれたのは昭和五年であるが、状況はその自殺者の数を除いて本質において変わりない。しかしここで重要なのは、経済面からみる孤独とは、経済的な孤立を意味すると同時に、よるべが無いということのための絶望感も意味しているということである。「よそはよそ」の精神はこれの極みであると思う。

 

暮らしの形態について

 

 近代化に伴って核家族化が進んだのは周知の通りである。かつての大家族が住まう間口の広い家は徐々に失われていった。これには家族の分家が進んでいったことが原因として挙げられる。若者にとっては、最初は出稼ぎ程度の感覚だったものが徐々に本格化し、都で一代目を築きあげるという風潮が進んだのも自然の成り行きである。この流れは現代にも引き続き、子どもが成人したのちの高齢者の独り暮らしは増加の一途を辿るようになった。高度経済成長期に乱立した団地そして三種の神器は、人を最低限の人数と余剰のモノで満たす生活に慣れさせた。行く先は、壁の向こうは預かり知らぬという無縁関係の連続であって、その向かう先にはやはり孤独死が影を潜めていた。

 

かつて大勢が共に暮らすことで子どもは多方面から刺激を受けていた。それは大きな意味で教育活動であったし、人が多いことで高齢者も助けられ、また反対に構成員を助けることも多かった。

 

現代は、家庭が孤立化している。虐待や自殺、飢え死に、鬱の大元の原因はこれだ。

 

合理性について

 

家が経営と家庭に分裂したことにより、・・・今や「合理的」潮流と「非合理的」潮流が対峙するようになった」―オットー・ブルンナー「ヨーロッパ その歴史と精神」

 

生産と生活の分離はすなわち市場社会の成立を意味する。市場においては、人はその能力をもって合理的であるか否かを判断される。合理非合理の価値判断基準は、労働世界のみではなく、日常生活をはじめあらゆる判断基準として私たちに浸透したと考える。

 

全てのものが有意義であるかそうでないかによって決められる、矮小な世界に私たちは生きているのではないだろうか。有意義な時間、都合のよい人、面白い人。社会的に合理的であるとされた風潮は受け入れられ、それ以外のものは大抵の場合排除、無視される。

 

「非合理」に分類された時間や人間は虚しく取り残される。それは、市場社会に入りこめなかった「無能力」な人であったり、「つまらない、仕様の無い」人間であるのだ。彼らの中には、労働市場に参加することが出来ないというのみではなく、社会を満たす合理的潮流に馴染めないということを切に感じてしまう痛みに襲われる人間も含まれている。彼らは、障がい者、ひきこもり、ニートなどの名称で扱われることもあるだろう。

 

共同体の崩壊

 

 石牟礼道子氏の物語に、悶え神さんという存在が登場する。普段は何の働きもせず、村をうろつくばかりである。しかし彼らはどこかに不幸があったときなどにはやって来て、遺族を精神的に助ける。お香典もなにもあったものではない、戸口の陰からそっと遺族を見守りながら悲しむだけなのだけれど、遺族にとっては救いだ。これは非常に示唆的で、共同体社会がなんの仕事もしない者でも生かしうる土壌を持っていたということを示している。そしてそれは、前述したような人々―障がい者、はみ出し者などと言われる人々―の生きる場所が共同体社会のなかには存在していたということにもなろう。共同体の相互扶助機能は、能力のないものでさえも十分に生かしえた。近代化に伴う孤立感の生起は、この土着の共同体の解体ということに端を発している。

 

 共同体に依らない結びつきは脆く、言葉の上滑りになりがちである。基盤となる土地を離れた多様な人々で埋まる都市は、有象無象の世界で、そこでは安全な駆け引きが重要視される。その社会では、関係性は恐怖や利害関係によっていとも容易く壊れうる。根底にある共通性を欠いたままには、人は虚無感や孤独感を抱えながら上辺の繋がり合いを楽しむ他無い。

 

 

さみしさの行方

 

 「ヒトはつねに、基本的に雑食で、適度な運動と娯楽が必要で、共同作業に依って生計を立て、公正感を大事にし、他者とコミュニケーションをとって、愛情を感じながら生きていきたい生物なのである」長谷川真理子「ヒトの適応進化環境と社会の在り方」

 

 この一文は人間に関する説明として事欠かない。そしてこのうちの一部は近代以降侵されてきたのだ。

 

 近代と出会い、土着の結びつきをを通した人との繋がりを喪った人々は、新たな共同体を志向する。それは振興宗教団体であったり、ありとあらゆる組合であったりする。若者においてはサークル、携帯電話への依存ですらそれにあたるかもしれない。結局人は人と繋がりをもって生きていたい生物なのである。その欲求がどのような形であれ、人々の行動に影響しているということは興味深いことでありながら、さみしさの数を思えば胸の詰まる現象でもあった。

 

 現代の世は生きるに値しないということを私は感じている。でも、この時代に生きていかねばならない。苦しんでいる人も大勢いるし、私もそのうちの一人である。どうにかこの乾いた時代に水分を欲している。

 近頃は、その水分とは、余りにも単純なもの―人を想う心つまり、優しさなのではないかと考えているが、これもまた模索中である。